慶應義塾大学 経済学部卒。日本・香港・スリランカ・インドにて、日系企業の会計税務・コンサルタント業務に20年以上従事。スリランカではODAプロジェクトにおける山奥での現場経験や、当時のCSR業務から派生したソーシャルビジネスの起業実績もあり、経営者としてスリランカ法人の管理業務の実績を数多く積んでいる。
多様なものが関わり影響し合い成り立っているのは、森も人間社会も同じこと。コーヒー事 業をはじめとする現地事業を通して得た共生や循環の考えは自分の軸をつくり、「個」の力 を高めてくれ、結果的には自身の世界も大きくしてくれた。スリランカ現地女性のもつ潜在 的パワーに触発されて実行した、サラリーマンでありながらの起業と事業展開。迫る困難に 対していつもあらゆる盾となり、奮起した 15 年間。
僕のこれまでの歩みが、海外への第一歩を踏み出そうとしている人、南アジアへの挑戦を考 えている企業にとっての、前向きな力や解決の糸口になればと思い、「環のもり」を立ち上
げた。
スリランカ歴 15 年以上、インド歴 5 年以上の知見・語学力・現地での情報収集力を生かして、南アジアに進出する日系企業・日本人の業務支援やリスクコントロール(危機予知 と克服)をサポート。お客様の安心と信頼の「盾」になって、常に伴走することを信条としている。
『対人コミュニケーションがまったくの不得手。ならば立場を演じて人格を つくってしまおう。』
幼少期から父の転勤により首都圏を転々とした後、横浜市内に落ち着き、高校卒業後、1 浪をして大学に入学したものの成績は不振そのもので2年間留年を余儀なくされるが、体育会での部活動だけは続けた。僕はもともと対人コミュニケーションが全くの不得手 で 、 大 学 生 に な っ て も それを 克 服 すること は 至 難 の 業 で あ っ た が 、
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部活動に対する熱量がそれを忘れさせ、4 年生時には部の主将を務めることになった。この時、“人間の本質は変えられなくとも、立場こそが人格をつくる”ことを学ぶ。
本来の自分と正反対ともいえる主将という役割とイメージ(例えば、試合に強く、豪放磊 落で、人望があって、というような)をあえて演じざるを得ない状況になった。もちろん ついぞ達成できなかった部分も多かったが、そのもがき苦しんだ努力というものは、内向 きの強い劣等感があった自分にとってむしろ心地良い外向きの挑戦でもあった。
『ゼネコン入社→ 海外で感じたリーダー不在の支援事業』
社会人として準大手建設会社(ゼネコン)に事務系総合職として入社した僕だったが、相 変わらず対人の苦手意識は変わらなかった。そんな中、適性がどう判断されたのか分から ないが、入社 5 年目で香港支店に赴任を命じられ、人生初の海外赴任を経験することに、そしてその 3 年後の 2007 年より、南アジアのスリランカへ転任することになる。
ここでのプロジェクトは、日本国の資金援助による熱帯の山奥における大型水力発電工事 で、日本企業 5 社による大規模なものだった。土木工事を行う我が社もその1社として参 画し、僕はそこで 5 年半、現場事務業務に従事することになる。 事務といっても内容は多 岐にわたり、地理的悪条件と闘いながら、集団ストライキや山村での近隣住民対策、犯罪、 死亡事故、裁判の処理など次から次へと頻発するトラブル対応が中心であった。
相手は省庁・政治家・警察・弁護士・医療機関等と多岐にわたり、日本人の「常識」と「経 験」が通用しない世界での折衝ごとに気力を使い果たす毎日は、自分自身を随分強くして くれ、国の独自のルール、および世界における普遍の鉄則をも知見として得ることができ た。さらに、日本企業が陥りやすい落とし穴に対する、リスクコントロール(危機管理)と危機発生後の克服方法を学んだのだった。
対人コミュニケーションが不得手だった僕は、その時その場所で求められている立場を演 じ続けるうちに、そんな感情もいつしか忘れてしまっていた。
真のリーダーシップが求められるはずの大型工事現場で目の当たりにしたのは、大規模な 資金援助・技術支援を日本国が行っているという、その建前ばかりが優先された組織だっ た。つまり日本人が現地人に対して真のリーダーシップを発揮して築いた主従関係がそこ にあったわけではなかった。僕をふくめた建前だけで成り立つリーダーたちは、人心を把 握する術など知らず、山積する問題の本質とその改善策や解決策を見出すことができない、カッコ悪いリーダーたちだったのだ。
さすがにもうちょっと、いやもっともっとカッコ良くなりたい。自分の大いに闘ったり遊ん だりする背中を見せて、周囲を巻き込んでいくことで、自然に現地の人たちが引っ張られて いくようなリーダーとなり、大規模なプロジェクトではなくても、局地的に存在する根本的 問題を解決するような持続可能な人材と生業の開発を実現したいという気持ちが、僕の中 で大きく強くなっていった時期だった。
『現場主義への挑戦 〜女性たちの潜在パワーにふれて〜』
その頃偶然出会った日本の NPO 法人が、現地のコーヒー栽培を通じた山村共同体開発 を行っていた。彼らから、かつて世界一の輸出量を誇ったこともあるスリランカ産のコ ーヒーが、一旦は絶滅したものの復活を遂げようとしている段階にあることを知る。僕 はおおいに関心を持ち、自主的にそのお手伝いをするようになった。
当初は NPO の現地窓口役を担う程度だったが、そこでも大規模工事現場と共通した欠 点があることにまもなく気づいた。当時流行りはじめたフェアトレード活動は、日本人 と現地人のセレモニー的な事業として形骸化していたし、現地の根本的な問題の見極めと 人 材 の 質 の 改 善 に は あ ま り 結 び つ い て い な か っ た 。
そのうち、コーヒープロジェクトへの当 NPO による資金援助が終了することを聞き、かねがね感じていた現地事業の問題点の解決に自らチャレンジしてみたくなり、NPOから独立して、自己資金を投じて事業の一部を発展させることを決心する。サラリーマン生活に終止符を打つ決意をしたが、それはすぐには認められず、当時きわめて異例だ った副業を認めてもらうかわりに、隣の大国インドのニューデリーへの転勤を命じられる。それからというもの、月に何度かのインドからスリランカの山奥への自費渡航を繰り返し、もう一人の同志の日本人を現地に常駐させつつ事業を進めていく形で起業がスタートした。
新しく出発するにあたり、僕の産業復興のひとつのテーマでもあった、女性たちの力を 最大限に生かす事業計画を立てた。現地で出会ってきた女性たちはそれぞれに大きな潜 在能力を持っていて、漠然と自己変革を行いたいと思っているにもかかわらず、その選 択肢 が極端に少なく、具体的な夢を持つことができずにおり、それをとてももどかしく 思っていた。そんな状況の打破のきっかけにしたいという思いからだ。
2012 年、スリランカ キャンディ市にコーヒー事業会社「Japan Fair Trade Corporation (のちの Wano Café Pvt.Ltd.)」を立ち上げ、まずはカフェをオープン。当時はまだ観光 都市でも普及率が低かったスリランカ産コーヒーを、外国人を対象に紹介することを目 的にした店舗だ。カフェで働く従業員は全て女性、サービス業での女性の活躍の場が少 ないスリランカにおいて、それはとても斬新なアプローチであり、すぐに話題になった
もちろん利点ばかりということはなく、女性だけで行う作業の限界があったり、偏見をもって我々の活動を評価する人たちもいたりと、問題は多かった。でも僕は、女性たち が自分の可能性を制限せずに、ときに偏見と闘いながら、のびのびと前に進めることが できるように、あらゆる場面で盾になろうとした。攻めは最大の防御なり、彼女たちが 外の世界で攻めていくために、盾をもってして猪突猛進していくのだ。
スリランカ国内のホテルへのコーヒー豆の卸し営業の際のデモンストレーションやイ ベントにも彼女たちを積極的に起用した。これも極めて異例なことであったが、取引先 経営者たちは、もの珍しさもあってそれを受け入れてくれた結果、ホテルへの卸売り事業は拡大していった。
自我をもって働きはじめた彼女たちの明らかな変化を背後から見守り支えていくうち に、これがリーダーの理想のひとつなのかも知れない、そしてもっとそれに近づきたい と思った。
山村では、コーヒー生産体制を整えるべく、女性の生産組合を各産地を立ち上げ、彼女たちのプロ意識を促した。僕の「常識」と「経験」が通用しない場所では、1つ1つ人 間関係を積み重ねていく、ときには妥協せずにいったんそれを壊して再構築ことが大切 だった。こうして、原産地で供給(生産組合)と需要(ホテルやカフェ)がひとつの環(わ)になった女性主導のフェアトレードを推進していった。
品質も向上していき、2016 年には自社コーヒーが IIAC 国際テイスティング大会にて金 賞を受賞。幻と呼ばれたスリランカコーヒーの復活劇は日本のメディアからも取り上げ られるようになった。
『事業の新展開へ、そして国難との戦い』
時系列としては前後するが、2014 年にサラリーマンとしてのインドでの役割を終えた 僕は迷うことなく退職し、コーヒー事業に邁進した。2018 年には、女性専用の人材派 遣業を行う事業準備の一環として、日本語塾の運営をスタートし、主にカフェや生産
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ゆくゆくは国内のみならず日本や海外で女性たちを活躍させる事を目指した。
が、そんな矢先に同年、会社のあるキャンディ市内で起こった宗教間暴動や、その翌年 の首都圏での大規模同時多発テロ、さらにコロナ禍とその後の政治経済の崩壊が重なり、実に 5 年連続の非常事態宣言・外出禁止令が全土に発令され、スリランカにおける事業 運営に多大な影響が出た。僕はインドの日系会計事務所への就職を決め、再び 2 国間で の生活を始めるなど、あらゆる対策を講じて、事業は 10 年目(2022 年時点)に突入し ている。とくに飲食業は、80%の店舗が 5 年もたないと言われている中で、女性たちの 力で 10 周年を迎えようとしていることには大きな価値がある。
会社や生産組合のひとたちとはあえて自信も失望も共有して苦境を乗り切ってきた。成 功体験も事業危機も、皆が自分事として捉え、皆で事業を支えていけるように舵を取る のが僕の役目だ。
日本においては 2018 年に(株)環のもりを設立し、コンサルタント業、コーヒーの販売及 び輸出入、教育事業支援、人材派遣支援を開始。スリランカ歴 15 年以上、インド歴 5 年以 上の知見・語学力・現地での情報収集力を生かして、南アジアに進出する日系企業・日本人 の業務支援やリスクコントロール(危機予知と克服)をサポートする会社だ。現地にいる僕 ならではのネットワークや経験値が役立てばと思い立ち上げた。
歴史や文化が違う地域では、ビジネスチャンスもあるが、対人・法律関係のトラブルが 多いのも事実。そういうもつれた糸をほどき、盾にも武器にもなることで、志のある方々 が安心して事業展開できるように全面支援している。
かつて心に抱いたリーダー像へは、「環のもり」として、顧客・従業員・生産者たちにと っての強い盾になろうとすることで少しは近づいたのではないか。コーヒー事業から学 んだ、森の共生と循環の哲学。その時々の環境や様々な生物が絡み合い、影響しあう姿 は人間社会そのものだ。多様な立場や状況が相互に関係しあっていく営みは事業におい ても同じと言え、だからこそこじれ、いろんな「負」や「不」が生まれることがある。
それをひとつひとつ解決して次につなげてゆくのが僕の使命だ。
「環のもり」は現在進行形の事業であり、コンサルタント業・コーヒーの販売及び輸出入・教育事業支援・人材派遣支援をはじめ、最大限に女性の能力を生かす場と機会を提供し、今 後も事業モデルを確立させていく。リーダーを目指して、世界で、南アジアで挑戦したいという志のある人や企業は、ぜひ弊社にお問合せいただき、現地業務支援、リスクコントロール(危機予知と克服)を中心にご相談を承る所存である。